1.15.2011

「今・ここ」について



「黎明への挨拶」

今日という日に目を向けよう!


これこそ生命、生命の中の生命なのだ。


その短い行路の中には、


君の存在の真理と現実がすべて含まれる。


生まれ育つ喜び


行動の栄光


成功の光彩


昨日は夢にすぎず


明日は幻でしかない


精一杯に生きた今日は


すべての昨日を幸せな夢に変え


すべての明日を希望の幻と化す


だから目を開こう、今日に向かって!


黎明への挨拶はこれだ。

         Byインドの劇作家カーリダーサ
TwitterのTL上で出会った言葉 「@nishijima_bot 昨日から学び、今日のために生き、明日に希望を持て。(アルベルト・アインシュタイン)」から思い出した詩。 素晴らしいインスピレーションを源に生きてきた人々は、時が「今・ここ」にしかないことを知っていたのだと思う。

オーストリーに住むようになり、「時」についてよくよく考えるようになった。時差なるものの存在、夏時間、冬時間など等、日本に居る時には考えもしなかったことだ。

それに加えて、場所、地点についても想いをめぐらすようになった。これは最初は電話で、そして次にネットで同時に日本の誰かと話しをすることから始まった・・・。

時計で表示されてる数字が違うことが明らかで、それは目で見て頭でなるほどと思われることだったのだけれど、話している時のその時間帯のエネルギーは明らかに違うことに気がついた。8時間の時差があると、こちらの朝の時間帯が日本では夜で、一日の始まりのエネルギーに対して、かなり色々な波動が混ざり合っているのだ。それで、もちろん日本とヨーロッパの土地、人の醸し出すエネルギー、雰囲気にも差がある。

もっと微妙な言葉では説明できないことが一杯重なり合ってのことだけれど、「今という瞬間に、あそことここの地点があって、その場所のエネルギーが違っている。」それが 私の「時間」の感覚になった。

それは、過去、現在、未来についても通じている。

過去は「今」思い出せばここにそのときの感覚が在り、その思い出している「今」がここに在り、未来も「今・ここ」で想像、創造しているのだ。物も人も3次元的なことはその時々でエネルギーを変化させているし、変化、変容している想念に沿ってそのもの自体も変化する。

視覚で表現すると今というこちら側の家の窓から沢山の過去、未来の窓がある向かいの家をいっぺんに「今・ここ」で眺めている感じだろうか・・・。

ようするに、「今・ここ」という「時間・場所」は想念、エネルギーでできているのだなぁ、とこのカーリダーサの詩をまた読んで、思ったことだった。