1.05.2011

「悟りとは捨てることではなく、違う選択をすること」

新刊本「神との対話①」141ページから

「 真実ではない。 「拒否」という言葉は、間違った意味をもっている。否定しても、実際には何も捨てられない。説明してきたとおり、抵抗すれば相手はま すます強くなるからだ。悟りとは捨てることではなく、違う選択をすることだ。何かから離れる行為ではなく、何かに向かう行為である。
あなたは何かから離れることはできない。相手は地獄までもあなたについてくる。それならば、どんな誘惑にも抵抗しないことだ。ただ、そこから顔をそむけなさい。わたしのほうへ顔を向けなさい、わたしに似ていないすべてのものから顔をそむけなさい。 ただし、間違った道というものはない。 この旅は、目的地に「行き着かない」旅ではありえないから。違うのは、いつそこに着くかというだけである。しかも これさえもほんとうは幻想だ。「いつ」ということはないし、「その前」も「その後」もない。つねに現在があるだけだ。あなたが自分を経験しつづける永遠の 時があるだけだ。」

このくだりを読んでいて、深く感じた部分は 「悟りとは捨てることではなく、違う選択をすることだ。何かから離れる行為ではなく、何かに向かう行為である。」と言う部分。

その意味するところは、表面的に捨て去った、離れた、と思っていてもこころの中ではいつでも「思い出す」行為をする、ということなのですね、意識して、意識しないで。潜在意識の中では捨て去ったと思ってもいつもそこにある。

違和感があること、不快に思うことはなおさらです、めぐりめぐってその感覚はいつか戻ってくる。抵抗していればなおさら、手元に引き寄せておいてインテンシブにそれと取り組むことになるんですね。

抵抗する行為はネガティブにそれに意識的に取り組んでいることになる、ということ。

さて、私はどうしてきたのか、と、考えてみました。

今でも抵抗している時が多い気がします、自分の気に入らない言葉に対に「抵抗」する言葉を投げかけている。

で、ここが大切、と自分で思います、それを「意識して振り返る」ということ。
責めるわけではなく、フイルムを見るようにそういった行為をしている自分をニュートラルに第三者の目で眺めてみるのですね。

違う角度から見つめてみて、違った自分を選択することをし易くする。

そうすることによって、自分を見つめ、受け入れる訳です、「ああ、そういうことに自分は抵抗しているのだな」と。その過程で自分の感情を明らかにしてゆくのです。

明らかにされた感情は、「なるほど」と認めたと言うことですから強い抵抗はうまれない。

そして、少しでも受け入れた感情があることを認め、次へと進んで行くのです。

永遠の時は「今、ここ」という瞬間にあるので、もしかして抵抗を繰り返しているかな?と感じても、それぞれのその瞬間はエネルギーも違っているし、意識した分だけ変化して(物事はいつも変化してますね)いるのです。

いつか抵抗しない時が来る。

神(愛・生命)の顔だけを見つめていられる時が来る。いや、そう思ったときがその時なのでしょう。


で。。。神の顔とはどんな顔なのかなぁ、とか想いをめぐらせるのです。。。

私の感じる神の顔はやはり肩の力、あごの力の抜けた、暖かい、緩やかな微笑みをたたえた温和な顔をしています。(^-^)。

日々、そんな顔になるよう、美しいこと、楽しいことを感じ、人の良いところに注目していたいな、と思います。